「一太郎」特許侵害事件⑤

完結編です。前回、本事案における特許権の有効性の判断では進歩性の有無が問題となり、進歩性とは当業者が公知技術に基づき容易に発明できない程度の困難性であることを前提とした上で、裁判所の判断について説明しました。具体的には、裁判所は、①代替技術の周知性、②顕著な効果なし、③代替技術使用という発想に著しい困難性なし、という判断を踏まえて進歩性なし、と判断しています。以下、このような裁判所の判断について独断と偏見に基づく管理人の見解を説明します。

まず、②の「顕著な効果なし」について論じます。このことを進歩性の判断要素とすることに疑問を持った方がいらっしゃるのではないでしょうか。すなわち、発明の容易性の判断対象は発明完成に至るまでの「創作行為」であるのに対して、効果の顕著性の判断対象は完成した発明そのものという「結果物」であって、両者は評価対象を異にします。より端的に言えば、すばらしい効果を発揮するものであっても、発明完成自体は容易であることも十分ありえるのであって、『結果物としての発明が「顕著な効果を発揮する」ならば「容易に発明できない」』という論理関係は存在しません。理屈はその通りで、管理人も初めて「顕著な効果の有無」という要件を聞いたときには違和感を持ちました。

もっとも、進歩性という無効理由を設けた趣旨として、独占排他権という強力な権利であるがゆえに権利付与のハードルを厳しくしたという考えを採用すれば、「発明が顕著な効果を発揮するか否か」という要件も権利付与に対するハードルとなりえる以上、進歩性の趣旨に反するとまではいえません。また、実質的に考えても、すばらしい効果を発揮できる発明に対しては、特許権を与えて積極的に保護することが産業の発達に寄与すると言うべきでしょう。さらに、効果の顕著性と発明の容易性の間の論理関係に関しても、
「顕著な効果を発揮する発明である以上、仮に容易に発明することが可能であれば、誰もが実施しているであろう」
→「少なくとも新規性を有する(客観的に新しい)以上、誰も発明を完成していないと認められる」
→「とすれば、当業者にとって発明を完成させるのに困難な事情があるのではないか?」
という関係であれば認められるのではないでしょうか。すなわち、論理関係の上でも、「顕著な効果あり=進歩性あり」とまではいえなくとも、「顕著な効果あり=進歩性があるとの事実上の推定」程度のことは認めてもよいのではないか、と管理人は考えます。

*なお、いろいろ調べてみたところ、特許庁の実務では「有利な効果」があるという事実は、「進歩性の存在を肯定的に推認するのに役立つ事実として、これを参酌する。」という扱いです。あくまで「有利な効果」であって「顕著な効果」ではない点に注意が必要ですが、「事実上の推定」よりは弱い扱いのようですね。裁判所の過去の判断については調べることが出来ませんでしたが、おそらくは同様の扱いなのではないでしょうか。従って、本事案でも②の要件を満たすことのみを根拠として進歩性の存在が認められる、というわけではないようです。

また、「顕著な効果」と似て非なるものに、発明を製品化した際の商業的成功があります。商業的成功が得られるような発明を完成させるのは容易ではない、という理屈に基づくのでしょうか、商業的成功を根拠として進歩性がある旨の主張がなされることがしばしばあるようです。製品開発ないし製品販売に関わっている方であれば容易に理解可能であるように、実際に製品が売れるか否かは、その製品の技術的価値のみによって決まるとはいえません。その製品が時代のニーズにマッチしていたとか、宣伝広告が巧みであった等の理由によってもヒット商品は生まれうるためです。このような背景があるためか、裁判所、特許庁ともに、商業的成功を進歩性の存否の判断要素とすることを一貫して拒んでいます。


次に、①の「代替技術の周知性」と③代替技術使用に著しい困難性なし、という2つの要件につき論じます。これらの要件は、いずれも発明を完成させるに当たって組み合わせるべき技術に関するという共通性を有しますが、両要件の関係をいかに解するべきなのでしょうか。

結論からいえば、管理人は、要件①が原則、要件②が原則を否定する例外事由だと考えます。すなわち、代替技術が周知であれば、(要件②の不存在も含めて)特段の事情がない限り進歩性の存在が否定されますが、代替技術採用に著しい困難性があれば、それを特段の事情として進歩性の存在が肯定される、という関係に立つと考えます。なぜならば、周知技術とは当業者であれば当然知っているような当たり前の技術である以上、一般的に発明をしようと考える者は従来知られた技術にとりあえず周知技術を組み合わせてみるのが通常であり、周知技術の組み合わせは本来的に容易になされるものと考えられるためです。一方で、周知技術を使用することが著しく困難となるような特段の事情があるならば、発明をしようとする者は周知技術を使用しないのが通常です。そして、その場合には周知技術を使用した発明を完成させることは容易とはいえず、進歩性が肯定されるべきです。この意味で、要件③は要件①に対する例外事由として機能すると考えます。


*以下、余談でありディープな世界のお話です。また、管理人独自の世界が展開されているので、以下の事項を常識と考えると痛い目にあう可能性が高いですのでご注意を!*

なお、本事案の発明は基礎となる技術(乙18号発明)の一部を削除した上で、削除した部分に周知技術を当てはめています。一部を削除したという特殊性はあるものの、このような発明は、広義の意味においては、複数の従来技術を組み合わせた「組合せ発明」に含まれるといってよいでしょう(なお、組合せ発明は公知技術を組み合わせたものとするのが一般ですが、本稿では周知技術を組み合わせたものも含むものとして扱います)。ところで、組合せ発明に関する進歩性の有無の判断基準には、大きく分けて2通りのものがあると言われています。

一つは、発明の構成が複数の技術の組合せに過ぎない以上、原則として進歩性の存在が否定され、例外的に技術を組み合わせることに著しい困難性が認められる場合には、進歩性の存在を肯定する、という考え方です。すなわち、本事案で裁判所が用いた基準と同様の基準です。このような判断基準を便宜上、原則否定・例外困難性必要説と称します。

もう一つは、発明が複数の技術を組合せであることのみでは足りず、複数の技術を組み合わせる積極的な動機付けの存在が認められた場合にのみ進歩性の存在を否定する考え方です。このような判断基準を便宜上、原則肯定・例外動機付け必要説と称します。

両基準の内容から明らかなように、原則否定・例外困難性必要説では発明の進歩性が認められにくいのに対して、原則肯定・例外動機付け必要説では発明の進歩性が認められやすいという特徴があります。このため、「昔は原則肯定・例外動機付け必要説で特許が認められやすかったのに最近は原則否定・例外困難性必要説となってしまい特許が容易に成立せず、プロパテント化政策に反している」なんて批判がなされたりします(注:批判の当否そのものについては留保)。

これら2つの判断基準に関してはいずれを採用すべきか、であるとか、裁判所がいずれを採用しているか、という議論がなされています。さまざまな考え方があるとは思いますが、管理人は、いずれかの基準が正しい、ということはなく、両者はケースバイケースで使い分けられるべきものではないか、と考えます。理由は以下の通りです。

およそ判断基準というものは、「基準」である以上ルールとして画一的な判断ができる性質のものである必要があります。一方で、常に画一的に判断してしまうと結論の妥当性が図れない場合があり、結論の妥当性確保のため一定の範囲で判断者の裁量の余地を残しておく必要があります。このような事情があるため、特に裁判所の判決で基準が定立される場合には、「原則として〜である(「原則」と断ることで例外を認める余地を確保)」とか、「特段の事情がない限り〜である(特段の事情があれば例外を認めるということ)」といった表現を用いるのが通常です。

判断基準に関するこのような扱いに鑑みれば、単に定型的に進歩性がないと認められる場合には結論の妥当性を失わないため例外事由として困難性がないかを検討し(つまり、原則否定・例外困難性必要説)、定型的に進歩性があると認められる場合には結論の妥当性確保のため例外事由としての積極的動機付けがないかを検討する(原則肯定・例外動機付け必要説)というだけのことのような気がします。両説の採否は国際協調とか、産業政策といった大それた理由には拠らないのではないでしょうか。

なお、自説では定型的判断に用いられる事実と、例外事由の判断に用いられる事実の区別が問題となります。定型的判断に用いられる事実としては、類型的な事実、例えば技術分野、課題、作用に関する共通性の存在などが挙げられると思います。一方で、例外事由の判断に用いられる事実としては個別具体的な事実、例えばA+Bという発明に関して、Aという技術を記載した文献に、「Bと組み合わせてみたがうまくいかなかった」といった記載があれば例外事由としての困難性が認められるのではないでしょうか。

以上、自説をとうとうと述べました。進歩性に関しては様々な専門家が論文等で考えを発表しており、その中に管理人のような考えを採用したものが見当たらないことからすると、マニアとして検討が不十分なところがあるのかな、と思います。余談部分については管理人の現在における仮説ということで、将来がらっと変わる可能性もあることにご留意願います。