「一太郎」特許侵害事件③

それでは、原告の特許権の有効性について検討していきます。前回説明したとおり、被告が製造・販売していたソフト「一太郎」が原告の特許権を侵害(間接侵害)していることが明らかとなったわけですが、原告の請求が認められるためには、そもそも特許権が有効であることが前提となります。この点、原告の著作権の消滅が問題となった映画「シェーン」著作権保護期間事件と事情は同じです。

ところで、著作権は創作と同時に発生するのですが、特許権は発明の完成と同時に発生するものではありません。具体的には、特許権は発明がなされた後、その発明について特許庁に対し特許出願(「特許申請」というと弁理士等の実務家さんは嫌がりますのでご注意!)をし、もろもろの手続がなされた上で、特許庁の「審査官」という役人が特許を与えることが妥当と判断した場合に特許権が発生する仕組みとなっています。また、特許庁の審査に誤りが生じることもありえますので、本来無効となるべき特許権に関しては、第三者特許庁に対して特許無効審判という行政手続を請求し、所定の審理を行ったうえで特許を無効とし、特許権が消滅することとなります。つまり、特許権の発生、無効は、基本的に特許庁の専権事項なのです。

さて、冒頭では当たり前のように「特許権の有効性」などと述べましたが、本来特許庁の専権事項たる特許権の無効について裁判所が判断することは許されるのでしょうか?実は、平成11年までは、裁判所は特許権の有効性につき判断をしていけない、というのが最高裁判例でした。なぜこのような扱いとなっていたのか詳しくは存じませんが、形式的には、特許権が対世的効力を有する以上、その有効、無効は形成判決によることになりますが、形成判決の要件・効果につき法律上の規定が設けられていないことが理由となりうるでしょう。実質的には、自然科学の素人である裁判官に特許の有効性を判断させるのは酷で、専門職たる特許庁の審査官に任せるべきだという事情に拠ったのでしょう。また、日本の法制度の輸入元であるドイツ法がそのような扱いをしていたことが理由とも言われています。

とはいえ、このような扱いは妥当な紛争解決の妨げとなっていました。容易に想像できるように、裁判所が特許権の有効性を判断できない以上、明らかに無効となるべき特許権に基づき侵害訴訟が提起されても、裁判所はその特許権を有効なものとして判決を下さざるを得ません。しかしながら、このような判決には具体的妥当性が認められないのはもちろんです。確かに上述の通り、特許庁に対して特許無効審判を請求することによって特許権を無効にすることは可能です。しかしながら、被告にとってこのような行政手続を行うことは時間的にも金銭的にもかなりの負担となっており、必ずしも妥当な解決手段ではありませんでした。

このような事情があったため、裁判所も実質的に明らかに無効となるべき特許権に基づく侵害訴訟が提起された場合には、何とかして原告の請求を棄却するよう理論構成を行っていました(例えば、実施例限定主義や、公知技術除外論)。そして、平成12年になって、最高裁判所が「特許に無効理由が存在することが明らかであるときは、その特許権に基づく差止め、損害賠償等の請求は、特段の事情がない限り、権利の濫用に当たり許されないと解するのが相当」と判断し、特許の有効性についての判断を禁じたそれまでの判例を変更しました(いわゆるキルビー特許事件最高裁判決)。ある意味ついに開き直った、という感がなくもないですが、これにより、裁判所は特許の有効性を判断した上で、明らかに無効と判断した場合には、形式的に特許権侵害が成立していても、権利行使が権利濫用に該当するとして、原告の請求を棄却することが可能となりました。

もっとも、これで万事解決ということにはならず、判例の解釈を巡って論争が生じました。具体的には、最高裁判決で用いられた「明らか」「特段の事情」をどう解釈するか、より端的には、特許が無効となる原因(「無効理由」といいます)のうち、判断が容易ではない進歩性(詳しくは後述)については「明らか」と認められる場合は少なく、裁判所が判断することは現実問題として認められないのではないか、等の議論がありました。実際の紛争では特許権が有効か否かを検討するとき、進歩性の有無が争いとなることがほとんど(キルビー事件は別の無効理由でした)でしたので、進歩性の判断ができるか否かは重要な問題だったのです。

そこで、この問題を立法的に解決すべく、平成16年に特許法が改正されて104条の3が新設されました。具体的には、「特許権又は専用実施権の侵害に係る訴訟において、当該特許が特許無効審判により無効にされるべきものと認められるときは、特許権者又は専用実施権者は、相手方に対しその権利を行使することができない」との条文が新たに設けられました。これにより、無効理由が存在する場合には、それが「明らか」でなくとも裁判所は特許権に基づく権利行使を認めないという請求棄却判決が出せることとなりました。このような立法的解決がなされたきっかけはもちろんキルビー特許事件最高裁判決ですが、その他にも知財高裁が設立される関係上、裁判所の判断に対する信頼性が高められたことも大きな原因でしょう。

なお、本条の解釈としてしばしば「裁判所が特許権を無効にすることを可能とした」と語られることがありますが、厳密には誤りだと考えます。裁判所は、争いとなった事案において、「権利行使(差止請求や損害賠償請求)を認めない」旨判断することが許されるのであって、特許権そのものを消滅させることは認められていません。また、特許権者は争いとなった事案においてのみ特許権の行使が否定されるのであって、別の事案について権利行使を認められる余地はあります。もっとも、裁判所で特許法104条の3に基づく請求棄却判決が出されれば、別の事案でも同様の判決が出されるのが通常ですし、特許庁に無効審判を請求した場合にも特許無効の審決が出される蓋然性が極めて高いです。結局のところ、実質的には特許権が無効になると考えて差し支えないのかもしれません。

また、これは余談ですが、104条の3が新設された改正特許法の施行日が平成17年4月(確か)であって、「一太郎」特許侵害事件の知財高裁による判決が平成17年9月です。両者の時期的な関係からすれば、おそらく本事案は特許法104条の3が適用された初めてのケースだったのではないでしょうか。

また長くなりそうでしたので、きりの良いところで一旦終わらせて頂きます。特許権の有効性、具体的には問題となっている特許に進歩性が認められるかについては、次回検討いたします。次回の更新は、明後日の予定です。